136. 地震の恐怖---4 (1999.9.24)

気仙沼では、地震の後の津波が怖い。
案の定、「宮城県沖地震」の後は、津波警報が出され、見回りのパトカーが出動した。
実家は海に面しているから、津波になったら、もろに被害を受ける。

そこで、1階の大事なものを2階に移動する作業が始まった。
そもそも「ホントに大事なもの」と限定すると、作業はあっという間に終わるはずなのだが.............。
「え〜〜、これも大事なのぉ〜〜〜?」と思うような、ばあさんのボロ着物もドンドン移動する。

その後は、鍋・釜と続く。
なぜか、夕飯も2階で食べることになり、茶碗や皿、箸なども運ぶ。
部活よりも辛い階段の上り下りの連続。

次に、いつでも、すぐに逃げられるように、自分の持ち物をまとめる。
こんな時、高校生の私は、何を持つべきなのだろう?
ホントに大事なものって、何だろう?
大切にしているカセットテープなんかをせっせと詰めて、ラジカセを準備すると、
「あんだ・だら(あなたって)、命かがってんのに、そんなもん」と母が言う。
出したり、詰めたり、時間がかかる。大事な物の選定は難しい。

すぐ下の弟は、パンツとパジャマを詰めて完了。あっさりしている。

末の弟は、大事にしている漫画本を選ぶのに、余念がない。
選ぶついでに、漫画を読みふけったりする。

マサエちゃん一家は、山に避難した。
やはり夕飯時にかかっているから、おかずを用意し、米をといで電気炊飯器も持って行ったそうな。
山の上は寒い。
準備のいいお父さんは、皆に毛布をかけた。
だが、「お父さん、炊飯器のコンセントは、どこにさすの?」ってなことになった。
米のままでは、食べられないことに、その時になって気づいた。
結局、水筒に用意したお茶を飲み、1時間程度で山を下りたそうな。
冷静にしているようで、大人も相当、あわてている。

津波は、少しだけやってきた。
魚町の道路には海水が上がった。
しかし、それはとても静かにやってきて、そして静かに引いていった。
その晩は、全員が2階で寝た。

そして、あくる日には、2階から1階への荷物移動が始まる。
数日間は、全員が筋肉痛になった。

その後も、余震はずっと続く。
学校では試験が始まったため、一夜漬けの私は夜中まで起きている。
当時は、バイパスが出来る前で、うちの前の道路は交通量が多い(最近は、寂しいかぎりだが)。

大型トラックも通る。夜中は、とばす。
大型トラックが通ると、ボロい家が揺れる。
そのたびにハッとして、身構える。揺れる恐怖は、その後も続いた。
おそらく、阪神大震災を体験された皆様は、今でも、ちょっとの揺れに恐怖を感じるだろう。

台湾では、相当な被害が生じ、まだ大きな余震が続いている。
家が崩壊し、財産のすべてを失ってしまった人々の胸中をお察しする。
一日も早く、安らかな日常が戻ることを願っている。