214. 母からメールが届いた (2001.9.8)

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」(古今和歌集)

吹く風に秋を感じる今日この頃。
この季節になると、なぜかわからぬが文学的な気分になる。毎年恒例。

高校生の時、その名も古今集にふさわしい「藤原カウ子(「こうこ」と読む)先生」に古典を習った我が同窓生は、皆「秋来ぬと〜」を空で言えるに違いない。
授業中に何度もリピートしたので、秋を感じると、これをつぶやいてしまう。
もう一つ「今は、もう〜秋〜♪ 誰も〜いない海〜〜♪」(トアエモア)を口ずさみ、私の秋は始まる。
どうでもいいが、10代で覚えた事は、きっちり記憶していることにゾ、驚かれぬる・ってわけ。

さて、母から待望のメールが届いた。
それは近ごろにない興奮した瞬間であった。
差出人に母の名前を見ると、自分の目がどうにかなったかと目をこすってみた。
もしや同姓同名がいるのかと、はやる自分をなだめた。
しばし差出人を眺めた後、おもむろにメールを開くと、それは間違いなく母の文書であった。

メールが届いた事を伝えると、挫折しそうだった母を再生した。
まわりも省みず、素っ頓狂な声を上げて喜びあう。
かくして母娘のメールのやりとりが始まった。

母から届くメールは意味不明である。

「徹雄の乖離はお城頃です」(原文のまま)

<解説>
気仙沼に遊びに行っていた弟ファミリー(徹雄)の(横浜への)帰り(乖離)は、お昼頃(お城頃)と書きたかったようだ。
つまり、楽しかったひとときも、残すところあとわずか。「昼頃には、てっちゃん達は帰っちゃうのよ」という切ない気持ちが伝わる。伝わるけれど笑ってしまう。

母には、送信する前に自分の文書に目をやるゆとりはない。
というか、母はひたすら前進する人であり、後ろを振り返ることはない。
名文(迷文)は他にもあるが、この辺にしておく。
なにしろ、メールのやりとりが出来るとは嬉しいかぎりである。

65歳を過ぎると、つい1分前にやったことさえも、忘れにけり(ああ〜忘れてしまった)。
かくなれば、振り返るものか、我が人生  by.母(やけくそ)

どうでもいいが、強くマウスを叩いたからといって、思い通りにはなるまじき。
そのことだけは理解して欲しい、と言いたいが、いまだに言えない娘より。